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《30周年記念セミナー》
記念講演
「鍼は元々刺すことが目的ではなかった?
   霊枢『九鍼十二原篇』から- 経絡治療の歴史を解説 -」

滋賀漢方鍼医会 二木 清文

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 (司会)滋賀漢方鍼医会創立三十周年記念講演、本会副会長である二木清文先生から「鍼は元々刺すことが目的ではなかった?霊枢『九鍼十二原篇』から- 経絡治療の歴史を解説 -」と題して講演していただきます。

 (二木)はい、よろしくお願いします。「私が、二木です」。一度「私が・・・」というような言い出しでしゃべってみたかったのですけど、キャスターがしゃべっているような感じでやってみたかったのです。何故かというと、今日は長い資料を使いながらの講義なのでいつもはピンが上下して点字として読めるピンディスプレイという装置を持ってきてしゃべるのですけど、これは今でも使ってはいますけど私が専門課程へ入ったときに展示を使っていたので勉強をしましたからどうしてもこちらの方が頭に入りやすく、後で展示を使っていたことで触覚が鍛えられていたという話も出てきますが何かをしながらでも点字は読めています。しかし、今日は資料が長いので先読みの先読みという形をしなければならないので、パソコンを持ってきてエディタから資料を確認していると片耳がふさがっています。片耳にヘッドホンをかけたままでしゃべりますからキャスターのようなので、「私が二木です」と切り出してみたかったのです。
 こんなところから始まっているので、この話はそれほど堅苦しいものではありません。今日はこのような集まりですから緊張をされている方もあるかと思いますけど、緊張をほぐすための話です。
 それで、この会場にお集まりいただいた方にはそれまでの経験があるのかないのかという違いはあるかと思いますけど、まずは『ようこそ経絡治療の世界へ』です。漢方鍼医会では経絡治療という枠組みを超えて“漢方はり治療”と称していますけど、私の担当時間内では歴史的なことを話していくことになっているので経絡治療ということにしたいと思います。

 いきなりですが、歴史的な話をするといいながら、現代のことをしゃべってしまいます。今年の国家試験の合格率が発表になっていましたよね。全体の受験者数が5500ちょっと、合格率が75%です。うーん、この数字を高いとみるのか低いとみるのかですけど、高い金銭を支払って三年間も勉強をして臨んだ国家試験としては、合格率がねぇというところです。これが実際には、現役の一般養成施設で目の見えている人だけの合格率だと92%くらいですね。ここで足を引っ張っているのは四年制大学の方が合格率が悪いのであり、三年制の一般施設でこの近辺でいえば京都医健であるとか仏眼、大阪でいえば森ノ宮学園とかいろいろありますし、名古屋の方でいえば中和ならもう少し高くて95,6%はあるみたいです。視覚障害者施設からの受験者数なのですけど、できる限り合格率の見込める人しか受験させない傾向はあるようですが、90%を若干割り込んでいたみたいですけどそれでも概ねの数値としては90%でした。
 では、そこからどうして15%も合格率が下がってしまうの?ということなのですけど、これは既卒者の合格率が非常に厳しいということで、現役の時に一発で合格をしないと「どうにもしゃあない」という世界なのです。
 ただ、合格率75%ということですから4000人の新たな有資格者が生まれた訳ですけど、この人たちが一生涯鍼灸のみでご飯を食べていける確率はどれくらいあるの?という話です。お医者さんの場合、特に女性の医者であればご自身の出産や育児ということで職場を離れてしまうケースがあるらしいです。それから親の介護ですね、どうしても日本の社会では女性への負担が大きいですし、病院勤務だと夜勤をせねばならないので昼間だけの勤務だけで続けていけなければ仕事が厳しいということになります。その割に学校の先生だと、生涯の離職率は低いのですけどね。女医さんの場合だと離職率が結構高いみたいです。この間は産婦人科のお医者さんが、自分が妊娠中なのですけど胎児が下がってしまい切迫区早産になりそうだと、私の鍼灸治療を受けに来て、一度でよくなりましたからその後は自分で管理してくださいということにしたのですけど「また降りてきてしまった」と治療を続けることになりました。それが安産につながり経験したことのない、もちろん自分が取り上げてきた中では経験がない安産だったので「鍼の力とはすごいですね」と、何かあると未だに来院されている面白い人もおられます。
 よその話はいいとして、鍼灸の場合は男女にかかわらず鍼灸のみで生涯仕事を続けていける確率が10%あるかどうかだと昔からいわれています。昔からいわれているということは、これは30年くらい前の平成へ入るまでからいわれていたことなのです。ということは、今はもっと鍼灸師の数が増えているのですけど受領者数は横ばいかむしろ減少しているという恐ろしい統計があります。昨年「医道の日本」に掲載されて、大反響だった記事ですけど、一日の平均の患者数が2.xということでしたね。
 これは患者数の多い鍼灸院とそうでない鍼灸院を合わせての平均値ですから、私の「にき鍼灸院」での患者数を特別講演の中で報告していいものかということはありますけど昨日は土曜日ですが30人でした。「にき鍼灸院」は健康保険を扱っておらず、全て自由診療での数字です。自分のやりたい治療をしたいのであり、患者さんも自分が受けたい治療を選んでもらう、「ものすごく高度な技術を提供しますよ、その分だけ患者さんも真剣に来てくださいね」「わかりました」という形式でやっています。この30という数字ですけど、土曜日としては若干少なかったです。今月(7月)に入ってからだと、30を切っている日の方が少ないです。まだ達成できた日の方が少ないのではありますけど、40を突破することもそれほど珍しくはない、こちらの方がびっくりしたということもなくなってきました。
 それなのに一日の平均患者数が全国で2.xということは、一応開業はしているのだが実態のない鍼灸院が結構多いということです。それから開業はしていても来院がないので予約制にしていることから、予約のない間にパートへ出ているとかですね。あるいは表向きは鍼灸院といいながら訪問マッサージをしているとか、そんな形で食いつないでいる人が多いようです。この場合、按摩の免許を持っている人はいいのですけどねぇ・・・、というところです。
 しかし、この漢方鍼医会は本部と地方組織を併せて現在約250名くらいらしいのですけど、東京の場合はほとんどの人が本部とかぶっているという話ですけど、そのほかに地方組織として愛知・名古屋・そしてこの滋賀・大阪・神戸・鹿児島となります。地方組織がこれだけしかないのですけど、それで250名という人数は現在の鍼灸業界の研修会としては真ん中より少し上の方というところでしょうか?決してそこまで大きな研修会ではないのですけど、「食える鍼灸師」が在籍している確率からすればこれは抜群なのです。この滋賀漢方鍼医会へ通ってきておられる先生でも、鍼灸だけで食べている人がほとんどです。うちの助手でまだ開業をしていない人とか病院勤務をされている先生もおられますし、うちの奥さんのように一緒にやっているという人もいたりはしますけど、でも鍼灸のみで食べられている鍼灸師を育てている研修会としては日本の中で群を抜けている研修会です。まずは、ここを強調しておきます。
 それでは何が漢方鍼医会の秘密なのか、歴史を振り返りながら見ていきたいと思います。手元に資料が配付されていると思いますので、見てもらいながら進めていきます。これはホームページ用に書いた資料なのであまり隙間がないというか、何度も何度も読み返して隙間のない文章をホームページには掲載するので、自分でさえ行間を埋めにくいところがあるのですけど読み上げてもらいながら進めていきます。


 何がきっかけでも構わないのですが「鍼灸師を目指そう」と思った時、まだその時には素人ですから専門的知識がないので「鍼やお灸を使ったなら何かができるかも知れない」と発想しています。それはそれで、素人なのですから鍼灸との接点さえあればいいのです。しかし、実は鍼灸は経絡や経穴を効率的に運用するために考え出された道具にすぎません。
 「えっ、そんなテレビやネットでは鍼を刺すことで人体にどんな変化があるのかを解説している記事ばかりなのに」と思われるでしょうが、霊枢『九鍼十二原篇』を読めば刺さない鍼が一番で、次には手術道具のような鍼が来て、やっと最後に刺す鍼だということが分かります。これは経絡を運用するのに、その順番で段々と探求していくのが効率的だということを示してもいます。
 では、ごく簡単にですけど九鍼十二原篇を解説してみます。

 (二木)私は先天性の視覚障害者として生まれました。今、まだほんの少しだけ右目には光覚があるのですけど、実は生まれたときには左目の方が見えていて右目は見えていなかったというか瞳孔が詰まっているような感じで、眼底が確認できなかったそうです。焼き魚の目のようだったともいいますから、慌てて生後二日目といわれていたのか四日目といわれていたのか忘れてしまいましたけど米原で生まれたのですが少し北側へ行った長浜の眼科で診察してもらったという話を親から聞いています。それが何ヶ月かすると左目の方も白く濁ってきて、「あぁこの子は全く光を感じないままで育つしかないんだな」と思われていたようです。
 それが何故か右目の同行がつぶれていて眼底の確認できなかったものがいつの間にか回復をしていて、左目はゼロになっていたのですがそれで幼稚園は普通に通ったのですが、目が見えていないことを自分でもわかっていたというか言い聞かされていた部分は大きいのですけど、具体的にはどのように見えていないのかを理解していませんでした。物心がついたときには右目だけが見えていました。それが幼稚園へ行くと、同じクラスの子が「あそこに誰々がいてる!」というような具合なのですけど、「えっとどこに?」という感じでした。そこから盲学校へ入学したのですけど、ここでやっと目の見えないということがどんなことかというのを実感できました。それで盲学校には小学部から中学部、そして高等部まであるのですけど高等部には按摩とか鍼とかお灸とかの職業訓練コースがありました。それで小学部へ入学したときから、おぼろげに「自分は将来あそこへ行くんだな」ということを思っていました。
 その頃に思っていたことです。これはテレビの見過ぎですね、白髪のおじいさんが苦しんでいる人のところへ出てきて「どーーれ」とかいいながら少し診察をして、ちょんちょんとやったなら「あれっ!なおった」というような場面がありますよね。漫画のブラックジャックの中にも『噂の座頭医師』という話があります。座頭市ではなく座頭医師ということで、鍼灸師を一度だけ話題にしています。白杖を頼りに歩きながら、鼻をクンクンさせて「病気のにおいがする」という台詞になります。そして取り出した一本の鍼を気合いを入れて刺すと「直った」と、それはないやろというところですが似たような姿を想像されていた方がおられるかもしれません。とにかく皆さんは「鍼で何かをやりたい」「鍼をすれば病気が治せるのだろう」のように思われていたでしょう。
 正直、生活のことを考えて医療関係ならということで学校へ入ってこられた方があるかもしれません。それはそれで、三年間の間にプロへとなっていただければかまいません。あるいは、学校を卒業して今この場に座っている方は、真の鍼灸を行うには「ちょっとこれでは違うな」と思われて参加されたのですから、今日からここからやっていただければいいのです。ちなみに白髪のおじいさんがやってきて、ちょんちょんとどこかをやったなら治ってしまうほどではないですけど、その世界がここにはあります。
 先週は本部の入門部で講師をしていたのですが、実技の中で妊婦さんがおられて西洋医学的にはうまく説明できないのですが胸へ熱が突き上がってくる奔豚気病になっていました。この奔豚気病というのは、突然に胸へ熱が突き上がってくるものですから激しい動悸が突然に発生するのが最大の特徴です。妊婦さんであれば、そのような症状があってもおかしくないだろうと想像できますよね。妊婦さん以外でも珍しくない病気なのですけど、この時には「とにかく息苦しいのが続いていてとれない」ということでした。最後にモデル治療をすることになっていて定員三名としていたのですがどうしても治療をしてほしいということで、四人目としてベッドへ上がられたものでした。そこで右の復溜へ本治法を一本しました。私の治療室はいつもそのようにしているのですが、これから古典の話をしていくのですけど古典には経絡は一日に五十周すると書いてあって、概算で一周は半時間ということになります。経絡の反応というものはすぐに現れるのですけど、やっぱり端々まで影響を及ぼそうとすると経絡が一周する半時間くらいはかかるということで、本治法をしたなら別の患者さんのところへ移動してしまい標治法まで半時間空けることにしているのです。それで一本だけしかしないものですから、同じ漢方鍼医会で既に一年半勉強をしているのですけどえっ!これで終わり?」という反応をされていました。「私は息苦しいんですけど」との訴えですが、「まぁ少し待っていて」というところです。それでベッドを一周してきたなら「先生、楽になりました不思議」って「不思議がっていたらあかんのやで」と説明をしていました。
 それでは、どうしてこのような鍼ができるのかを、これから説明していきます。


鍼灸を行うためには、古典を読むことが必須!
 まず鍼灸を含む漢方医学を学ぼうとする時には、中国の古い時代に残る医書を学ばねばなりません。鍼灸師が俗に「古典」と呼んでいるものです。
 どうして古典を読まねばならないかなのですけど、現代人は情報化社会となり知識が豊富で便利な道具も揃っている反面、日常生活での知恵というものが薄れてしまいました。検査や解剖学の発達により人体の隅々まで分かったつもりでも、肩こりや風邪を治癒させる方法を未だに会得していないことを例にすればよく分かるでしょう。ところが古代の人たちは日常生活の知恵に優れていて、また自然から学ぶこともよく知っていたので現代人の感覚ではつかみ取れない関連性も見いだしていました。その古代の人たちが考案した道具である鍼灸なのですから、古代の人たちの知恵をまず学ばせてもらわねばならないということなのです。
 そして驚くべきことでもないでしょうが、漢方医学の真髄は全て古典に書き尽くされています。道具などの工夫により新たな修練法が開発されたり効果の新たな証明方法が発見されることはあったとしても、既に真髄は古典にあるのですから古典を読まねば漢方医学の修得はできないのです。


『九鍼十二原篇』の概要
 鍼灸に関連する古典としては『難経』が全てを集約しているといわれています。これは極論過ぎるといわれるでしょうが、低く評価されることはない『難経』ですから、話を進めるために今回は全てを集約していることにしてください。その『難経』のベースとなっているものに『黄帝内経』というものがあります。『黄帝内経』には様々な説があるそうなのですが、一般的には自然哲学に根ざしたZASaq 22qq 病理学的な内容が多い『素問』と鍼灸のことが多く書かれている『霊枢』から構成されるというのが定説です。その『霊枢』の一番目に登場してくるのが『九鍼十二原篇』です。
 『素問』も『霊枢』も複数の著者によって書き表されたものであり、時代的にも長く掛かっているので編纂された最後の段階になってダイジェスト版のような『九鍼十二原篇』が挿入されたものと推測できます。これを先頭に挿入していることに、大きな意味が込められています。
 『黄帝内経』は、黄帝と主に岐伯との間で問答をするという形式で記述されています。岐伯は鍼博士であり、他にも数人の鍼博士が登場してきます。国王である黄帝がそんなに医学に詳しいはずはなくフィクションなのですが、「国民の健康を思って書かれた書物ですよ」ということがこのあたりからも読み取れます。


 (二木)
女は感情の動物・右脳の動物、男は理性の動物・左脳の動物などと言われますけど、ちょっと差別的な表現があったかもしれませんが情報系というものは左脳へ入ってきます。産業革命の時に印刷技術が発展して、大量に書物が作れるようになりました。本というのは書き写す書写で残してきたものであり、日本では木を彫り込んで複製をしていく版木などというものもありましたけど、それらを用いても一つの書物を作るということそのものが大変であり増刷をするというのはもっと大変なことでした。だから知識を伝えるということについては口伝だったわけです。それが産業革命での印刷という技術により、みんなへ広く知識を伝えられるようになりました。それが今度は、電波を使ってのラジオが発明され情報が即座に伝わるようになりました。情報が即座に飛び交うようになったので、世界大戦が勃発したという一説もあるくらいです。その次の時代になると、テレビとなり画像そのものが見えるようになりました。これはすごいですね、みんなが見ているものが一緒なのですから。ラジオで「これはすごくいい万年筆です」と紹介されたとして、軽くて先端が十八金だとか説明されるのですけどラジオを聞いている人は万年筆の形は知っていますし先端が十八金だと説明されるのですけどその先は頭の中で想像をしているだけです。でも、実物を見ているわけではないので「本体は青色です」と言われたなら、「黒だと思っていた」などという話いくらでもあるものです。だからラジオの時代はまだまだ想像の世界だったのですけど、テレビの時代になって想像力というものが逆に押さえ込まれてしまったのです。でも、情報量は増えました。
 そして今の時代なのですが、私が子供の頃には週刊の漫画本をよく購入したものです。最初は「ドカベン」が読みたかったので少年チャンピオンを購入したのですけど、実は同時に連載されていた「ブラックジャック」の方にはまってしまいました。少年ジャンプはたくさんの作品があって、「DRスランプ」とか「ドラゴンボール」は途中まで読んでいましたし「北斗の拳」がありましたね。「北斗の拳」には経絡秘孔などというのも出ていましたけど、漫画を読んでいる段階ではケンシロウがあのような低い声だとか、拳を放つときの「あたーっ」というかけ声があれほど高い声だとみんなが想像をしていたかです。ギャーといいますから爆発するときの「ひでぶ」という声は高いだろうとみんな思っていたでしょうけど、アニメになると「北斗の拳」とはこういうものだという固定観念ができてしまうのです。これがいいことなのか悪いことなのかは、よくわかりません。今うちの子供は小学四年生と二年生と幼稚園なのですが、漫画本をほしがらないのです。何故かというと、iPadでyoutubeがすぐ見られてしまうからです。GYAOで「妖怪ウォッチ」が見られますから、漫画本が不要なのです。それに大人には漫画アプリというものもあったりしますから、紙の媒体が不要になっているのです。それでいて情報量はものすごいのです。爆発的に左脳が右脳を覆うようになっている現代人ですから、だからこそ古典というものが大切なのだということを書きました。
 では、ここから九鍼十二原篇の中身へと入っていきます。


簡略版『九鍼十二原篇』、
 *以降の部分は、古典というものを全く知らない人のためにこの文章のために付記したもので、『九鍼十二原篇』には書かれてありませんので、あしからず。

 黄帝が岐伯に質問をします。「私は国を治めているのだが、子供というべき民には自給ができなかったり病気をしているものがいるので可哀想だ。負担の大きい強い薬や石でできた鍼ではなく、細い鍼によって微妙な刺激で治療ができるそうだから、鍼の教典として残したいので順番に教えていってくれ」と、問いかけています。
 これを受けて岐伯は、「臣下の私に手伝わせてください。黄帝の質問に対しては筋道があり、一から始まり九で終わります。」と、順序立てて説明を始めていきます。
 *p1*古代の中国では「九」という数字が最大を表し同時に縁起のいい数字とされたので、九つの項目にまとまるようにした節が確かにあります。

 「微鍼で重要なことは、述べるのは容易ですが実際には難しくて、未熟ものは形にこだわるのですが、すぐれているものは神(気の動き)を重要視します」と、手法というものがいかに繊細なものかということを、まずは説明しています。
 「虚実に対しては、九種類の鍼が最も適切に対応でき、補瀉を行います」と、補瀉を鍼で行うのだと話が進みます。


  (二木)おそらくこの「九鍼十二原篇」が書かれたのは、後漢に入ってからでしょう。
 秦の始皇帝が非常な圧政を敷いた時代から、次は項羽と劉邦で有名な漢王朝へとなります。漢王朝は秦の圧政の反省から民衆のためにとされましたが、いつの時代でもそうですがそのうちに官僚が腐敗をして春秋戦国時代となります。実はこの春秋戦国時代にはたくさんのけが人が出ますから、医療もたくさん発展をしました。そして後漢へと入り、安定してから蓄積された知識がまとめられて経典となっていくというのが大体の流れです。それで最初の方にも書いてありますけど、皇帝という人が医療にそこまで詳しいはずがありませんし、「民衆は私の子供のようなものだからかわいそうだ」などと本当に思っていたのか?というところがあるのですけど、「みんなに読んでもらうために作った本ですよ」ということです。現代にはあまりないのですけど、第二次世界大戦から昭和三十年代くらいまでは問答形式での本がたくさんあります。そのようなものだと思って、読み進めてください。


 九鍼はそれぞれに形が違います。
 一つめは、ザン鍼で、長さ1寸6分(ザン=金へんに、讒のつくり)」です。ザン鍼は先端は大きくて鋭く、よけいな陽気を瀉して取り除くのに使います。
 *鋭いといっても、皮膚が切開されるようなことはなく、こすって使います。なお、寸法はその当時の表現であり、現代の一寸六部よりかなり小さくなります。


  (二木)ザン鍼は現代のザン鍼と異なっています。後から出てくるものの中にもあるのですが、名称を「九鍼十二原篇」から引き継いで使っているものの中身が異なっているケースがあることを、まずは覚えておいてください。今日は持参してくるのを忘れてしまったのですが、現代ではラッパ鍼と呼ばれるものに相当するのではないかと思っています。原型は、この文章だけではわかりませんが森ノ宮学園にある「はりきゅうミュージアム」に行けば、実物があるかも知れません。


 二つめは、員鍼で、長さ1寸6分」です。員鍼は卵形の鍼で、肉のすき間をこすり、肌や肉を傷つけることなく、気を分散させ瀉します。
 **筋肉の隙間のことを「隙(げき)」といい、卵形の先端に突起をくっつけたものが現代の円鍼であり、その突起で隙を軽く叩き、あるいは卵形の部分で皮膚全体をこすります。突起を付けない卵形のみの円鍼も改良型として多く用いられています。

  (二木)現代では員利鍼とカタログに掲載されているものです。筋肉の隙間には経絡の流注も巡っていることが多く、その隙をとんとんとんと叩くように用いるのが本来の使い方のようです。ですから、カタログの員利鍼には先端に突起がついています。その突起がついていると、こする使い方というか背中の気を流すように用いている時には逆に皮膚を突起が引っかけてしまうので、私がお世話になっていた頃の東洋はり医学会の先輩のどなたかが考案されたと聞いているのですが、先端の突起を取ってしまい円鍼として頻繁に用いている現在の形へとつながってきているようです。


 三つめは、テイ鍼で、長さ3寸半(テイ=金へんに、提のつくり)」です。テイ鍼は先端は黍や粟の粒のようで、おもに脈を押さえて、深くさすことはなく、気をいきわたらせるのに使います。
 *鍼の先端に黍や粟の粒のような丸い突起を付けており、丸い突起の側で補法を行うとされています。粒なのですから皮膚が凹むように押さえつけてはいけません。本ホームページでは「ていしん」と表現しているもので、オリジナルデザインへと変更しやすいので先輩諸氏が色々と工夫をされており、「二木式ていしん」もその一種です。


  (二木)はい、宣伝も少し入れさせてもらっています(笑)。“小里式ていしん”が小林先生の話の中にも出てきていましたけど、中央が太くて両端へ向かうに従って段々と細く鋭くなっているという形状をしています。そして片方は鋭いままで、もう片方の先端には米粒のようなものが付いています。初めて触らせてもらったときに私もそう考えたのですけど、ほとんどの人がそのように発想をするでしょうというかこの「九鍼十二原篇」を読んでいなければ尖っている側で補うのだろうと思うでしょう。ところがこれが違っていたということには、とても驚きました。でも、実際にやってみると米粒の側で補った方がうまくいくのです。ここにも書きましたが、押さえつけてしまえば“ていしん”の効果は発揮できないのです。
 “ていしん”のていという漢字は、堤防の堤という文字のつちへんがかねへんになっているというもので、JIS第二水準にもない文字です。現代はユニコードで扱うことはできます。この「是」の部分が触るという意味で、こういう点でも皮膚が少しでもへこんでしまえば・押さえてしまえば、ていしんの意味をなさないのだという話を聞いたこともあります。では“ていしん”の話はこの後にたくさん出てきますので、このあたりで次へ進みます。


 四つめは、鋒鍼で、長さ1寸6分」です。鋒鍼は角が3つある刃物で、長い間治らない病気を外に出すのに使います。
 *具体的な使い方としては、お血(おけつ)を排出するための瀉血の用途に用いたのでしょう。

 五つめは、ヒ鍼で、長さ4寸で幅2分半(ヒ=金へんに、皮)」です。ヒ鍼は先端が剣の先端のようで、大量の膿を取るのに使います。
 *文字通り、膿を取るときに使ったのですから現代でいえば手術道具ということになるでしょう。

 六つめは、員利鍼で、長さ1寸6分」です。員利鍼は、先はからうしの尾のようで、丸いところと鋭いところがあり、中ほどは、わずかに大きく、横暴な気を取り除くのに使います。
 *横暴な気を取り除くとあるのですから、これも瀉血が目的の鍼だったでしょう。


  (二木)医療の始まりというものは東洋医学でも西洋医学でも、それから中東のユラミガクやインドのアーユルベーダ、どれも共通しているのは瀉血から始まっているということです。というのは、けがをしたとか毒虫に刺されたとかでその箇所が怒張しており、痛みに苦しんでいるのでその箇所から出血をさせてやれば治るのではないかと発想をしたでしょう。人間がまだどれくらい言語を使いこなせているのか?そういう時代のことでしょう。その箇所を直接切開していたと思われます。
 皆様も体験があると思うのですけど、乳歯が抜けてしまう前に痛みを伴うことがあるのですけど、そのうちに出血をしてくると口の中が血だらけになって大変なものの、逆に痛みが消失してしまいます。要するに乳歯が抜けようとしているので内部では出血が既に発生していて、これが組織を圧迫して神経圧迫まで起こすものですから痛みとなり、そこから出血をすると神経圧迫が外れるので痛みが解消をします。
 医療の発想というのはこういうもので、出血をさせて毒が抜ければ全身状態が回復しますし痛みも取れるということで、どの医学も瀉血という行為から始まってきています。このような手術道具のような鍼が「九鍼十二原篇」の時代には用いられていたということです。ただ、出血を伴うものですし膿を大量に取るなどと書かれていますから、そうそう頻繁に用いていたとは思えません。ということで、「ざん」「えん」「てい」を最初に用いてくださいよ、それで対処のできない怒張を伴っているようなものは「ほう」「は」「えんり」を用いるのだということが、ここまでの記述でも読み取れます。

 七つめは、亳鍼で、長さ3寸6分です。先端が蚊やあぶのくちばしのようで、ゆっくり行って静止させ、長時間とどめて様子をうかがい、面倒をみて、痛みやしびれを取ります。
 *現代で最も頻繁に用いられている毫鍼の原型ですが、鋭いのは鋭いのですが、丸みを帯びた鋭さだということが読み取れるので、現代の毫鍼の方がその後の制作技術向上により変化をしたのだと分かります。そして本文に「ゆっくり行って静止させ、長時間とどめて様子をうかがい、面倒をみて、痛みやしびれを取る」とありますから、不覚刺鍼するのではなく置鍼のために用いられていたのであり、深く刺鍼するというのはこの時代には想定されていなかったことだろうと思われます。

 八つめは、長鍼で、長さ7寸です。先端は鋭く、身は薄く、遠方のしびれを取るのに良いとされます。
 *こちらの方が現代の毫鍼の使い方に近そうです。ただ「長い鍼ですよ」と書かれているので、あまり頻繁に用いた感じではありませんし、当時の材質だと靱帯へ深く刺しても無害であったかどうかの疑問があるので、ここからも頻繁に用いられていたとは想像しにくいものです。

 九つめは、大鍼で、長さ4寸です。先端は棒のようで、わずかに丸く、関節などの水を排泄するのに用います。
 *これは刺鍼するための鍼とは違ったようです。先端が丸いのですから、特定箇所を押さえる使い方だと想像され、「邪を払う」のような役目だったのでしょう。


 ここまでで『九鍼十二原篇』としては半分あたりで、この後も黄帝と岐伯の問答が続きます。邪気や虚実を考えずに鍼をすればかえって悪影響をもたらすことや、刺鍼での注意点、五要穴の説明、十二の原穴について、手法での注意点と続いていきます。私が研修会へ参加させてもらった当初は、補瀉を説いているとされた段落について暗唱をして教室の中で大きな声で発表をしていくということもやっていたくらいです。
 注釈を入れた部分からもおわかりになるでしょうけど、刺鍼は確かにされていたようですが現代のような深い刺鍼はなく、身体へ刺さるものはむしろ手術道具のようなものが目立ちます。つまり最初の三つは接触までの鍼であり、これらを重視していたことが読み取れます。
 毫鍼は特に20世紀になって細いものが製造できるようになると、簡単に身体へ刺さってしまい響きも発生しますから、いかにも「これは効いた」という手応えが術者にも患者にもあり、そして偶然にも深く刺鍼したことで瞬間的に痛みが取れたりなどするものですから、次第に深く刺鍼することそのものが鍼の目的と混同されるようになっていったことは想像に難いところです。けれど『九鍼十二原篇』では、そのようには書かれていません。黄帝が「負担の大きい強い薬や石でできた鍼ではなく、細い鍼によって微妙な刺激で治療ができるそうだから、鍼の教典として残したいので順番に教えていってくれ」と、問いかけているのですから、鍼とは鍼灸術とはそのようなものでなければならないのです。



  (二木)先ほども医学の始まりというものはどれも瀉血からだったということを話しました。もう少し掘り下げると、けがをして戻ってきたなら「大丈夫か大丈夫か」ということでその箇所へ手を当ててあげて、そのうちに瀉血ということをするようになったはずです。ところが、先ほども歯痛を例に出しましたけど「ここから血を抜いてあげよう」とするのですけど痛みが強すぎて、さらに腫れていたりなどもしたなら「触ってくれるな!!」と手をはねのけられるようなこともあったりして、歯の痛む箇所からは瀉血ができないので仕方なしに合谷や足三里などを気休めに揉んであげていると、「ん、!治った!」というようなことを経験してきます。皆さんも同じようなことを経験されていませんか?肩こりがひどいのですけど一人なのでその頃は意識をしていなかったでしょうがたまたま脾経とか胃経の流注上を揉んでいたなら、「あれ?楽になった」というようなことを。こんな事例からツボというものがある、ツボ療法というものが発見されてきたと想像できます。
 あるいはツボを押さえていると響きがあるので、経脈が発見されてきます。経脈をたどっていくと新たなツボが発見され、そのツボから経脈の続きが発見されと、おそらくですが経脈と経穴というものは足が交互に前へ出るような感じで補うようにして発見されてきたのではないかと想像しています。そして、その経脈・経穴をいかにして効率よく運用できるかということで考え出された道具が鍼とかお灸なのです。
 最初の方へ話が戻りますけど、皆さんは学校へ入るときに「鍼やお灸で患者さんの治療をしたい」「医療行為をしたい」と思って門をくぐられているのですけど、でも鍼やお灸はあくまで道具の話であって、本当はこの経脈・経穴をどのようにして使うのかが目的なのです。鍼やお灸というのは、単なるアイテムなのです。ですから、経脈や経穴を無視した鍼灸というのは私の立場からすれば、あり得ないことなのです。

 話を、ここから前へ進めていきます。このような感じで江戸時代までは来ていたらしいです。ここでは深く触れませんが古方派と五正派が出てきて大きく発展した時期があるのですけど、それ以前とでは経穴の呼び名が大きく変わっているごっそり変わっているという話なのです。何故ごっそり変わってしまったのかについて興味はあるのですけど、それでも江戸後期までは医者といえば漢方医のことでした。当時は漢方薬も一緒に扱っていたのではないかと思います。
 ここに明治維新が発生します。それまでは侍が威張っていたのですけど、文明世界へ踏み出さねばならないとの風潮で、鍼灸など非文明的ではないかとされてしまいます。漢方撲滅という、大暴挙が行われてしまいました。この時に日本でのお医者さんといえば西洋医学の医師であり、それ以外は医療ではないと規定されたものが未だに引きずられています。漢方はここで、日本の主流からは追い落とされてしまいました。しかし、民間医療としての支持を厚く集めていました。
 ただ、このあたりから西洋医学を意識しての鍼灸というものも発生してきて、「経絡経穴不要論」というものが幅をきかせたといいます。ツボというものは70数個あればいいのだという話です。でも、その人たちでも治療点として経穴を便利に使っていたじゃないですか!?

 さらに時代が進みます。第二次世界大戦の前あたりになると、医療の主流とは認められていないので印刷技術が日本ではまだそこまで発達していなかったことも足かせになって経絡経穴は秘伝・口伝に近い世界だったということと、脉診や触診をするのが面倒だったのか、あるいは修行に時間がかかるので弟子の数を制限していたのか、また鍼灸でさえ一年程度で免許の取得ができた時代ですからレベル的に非常に落ちてしまっていたらしいです。
 この時に、このままではいけないと柳谷素霊が「古典に帰れ!」と叫びます。素霊という名前は、素問と霊枢を合わせてご自分で名付けたというのがよくわかります。現在の東洋鍼灸専門学校を設立され、ここでたくさんの弟子を育てています。それから元々は同窓会誌だったものが今の「医道の日本」になっています。日本の鍼灸業界にとって、この柳谷素霊という人物は忘れられない偉大な存在です。「古典に帰れ!」と叫んだのですけど「柳谷秘伝一本刺鍼」などの本も残されていて、この柳谷先生ご自身はていしんなど極浅い鍼というより経絡を重視したものでなければならないということを主張されていたのであり、鍼の深さはそこそこあったのではないかという気がします。
 この柳谷先生が昭和三十年代にヨーロッパへ視察に出かけた際、帰国してすぐ「このままでは日本の鍼灸はだめになる」「すぐ欧米に追い越されてしまう」という論文を書いたのですけど、実は今その通りになってきているという話です。

 今、鍼灸学校へ行くと最初から西洋医学を教えられます。これ自体は全く問題がないというか必要な知識なのですけど、この状況を定着させたのがマッカーサー旋風というやつです。マッカーサー旋風という言葉そのものが歴史上正しい使い方かという疑問は別にして、第二次世界大戦が終わって総大将をマッカーサーとするGHQが日本を占拠します。マッカーサーが鍼灸を禁止した理由なのですけど、これは本当かどうかわからないのですがアメリカの捕虜兵を自白させる拷問にお灸を使ったということで、「そんな野蛮なこと」と禁止令を出したといいますが、本当かどうかはわかりません。
 ここで石川日出鶴丸博士が、内臓体壁反射理論から「西洋医学的にも鍼灸は効果が証明されるから存続をさせてください」と誓願をして、これが認められて今のほとんどの鍼灸師が行っている深くさして響きを得るという、経絡治療からの世言い方では刺激治療が幅を効かせることになりました。
 さらに現代なのですけど、入学して毫鍼を手にすると必ずディスポーザブルのものです。私が学生だった頃は、まず銀鍼から入ったのです。銀鍼というのは、柔らかくて曲がってしまうのです。一寸三部でさえなかなか刺さらないところを、押手いっぱいまで刺しなさいと言われると一寸六部などは遙か彼方の話にさえ感じてしまうくらいでした。これはこれで、刺鍼技術を伸ばしてくれました。ところがディスポとなると中には銀鍼もあるらしいのですが、普通は最初からステンレスになります。ステンレスというのは、普通に持っているだけでズボッという感じで刺さってしまいます。これにより刺鍼技術は非常に低下したものと思われますし、おおっぴらには発言されていませんけど、刺激治療で有名な先生たちも「刺鍼技術は低下した」と嘆かれています。

 長くなってきたので私が経絡治療の世界へ足を踏み入れた話などは割愛して、ていしんについての話へ入ってまとめにしていきたいと思います。
 開会の挨拶の中でもあったのですが、経絡治療の世界へ入っても最初はそれしか道具を知らなかったということもありますけど毫鍼を用いていました。ところが、私がていしんに持ち替えようという決定的な出来事がありました。患者は高校生でバスケットボールをやっていたのですが、プレー中の接触事故から背部の肉離れを起こしたのですけど、この時には一度ですぐよくなりました。そして二週間後に、「先生またやってしまった」と来院をしてきました。同じように治療をしたならすぐ痛みが回復し、「気をつけてプレーするんやぞ」と中医をして終わったのですけど、明くる日にまた痛むと来院してきます。練習をしたのかと尋ねるとやっていないといいますけど、この日も同じように治療をしたのですが三日目にもまた痛みを訴えて来院をしてきます。来院の前に父親から「かなり痛そうなのですが」と電話があり、話を聞いていると夕食までは笑顔で普通に過ごしていたといいます。四日目になると、ベッドまで支えてもらわないと移動できなくなっています。やはり夕食までは笑顔で普通に過ごしていたということですから謎が深まります。
 二日目には知熱灸をしたり三日目には円皮鍼も付けたりなどしていましたから、四日目の今日は支えてもらわないとベッドにたどり着けないではいよいよ毫鍼で深く刺鍼せねば対処できないのだろうかと迷いました。頭が沸騰しているというかかちんかちんになっているというか、どうしても考えがまとめられないときには一度そのベッドを離れることにしています。
 「これはどうしたものか?」と考えがまとまらないときには、私はそのベッドから一度離れることにしています。このときには裏口まで離れてしまい、もう少しで裏口から外へ出そうな感じでした。「うーん」とうなりながら考えていたときです。浅い鍼で衛気を補う、つまり陽気を補っているといいながら毫鍼を使っているがために自然に力が入ってしまい、自分が気をつけているつもりでも深く入ってしまっているのではないか?と思いついたのです。「よっしゃ、それなら全く刺さらないていしんでやってみたら」とすぐやってみると、見事に痛みが回復をしました。というより、今まで以上に治った手応えでした。
 これで冷静さが戻ったので、一晩眠ると痛みがぶり返してくるのですからどのようにして寝ているのかを質問をすると、ベッドで寝ているといいます。それではせんべい布団で今夜は寝てくるようにと指示しておいたなら、明くる日は痛みがありませんでした。さらに突っ込んで聞いてみるとセミダブルのベッドに寝ているのですが、ベッドには溝がありそこへはまり込んで眠るのが気持ちいいとかで溝へはまり込むとくっつきかけていた筋肉を自分でまた引き裂いていたのが痛み再発の原因でした。わかってしまえばなんということはなかったのですけど、でもこの話は「自分ではわかっているつもりでもその通りにはなっていないかも知れない」ということを教えてくれました。『九鍼十二原篇』にも、下手な人は形にこだわってしまうが上手な人は気をどのように扱うのかに重きを置かねばならないとありました。やっぱりその頃は形にこだわっていたのでしょうね。
 そこから段々とていしんを用いることが増えていっていたのですけど、大阪漢方鍼医会の森本先生が既に“森本ていしん”を製作されていて、すぐその“森本ていしん”を分けてもらって使い始めたなら半月くらいでていしんのみの治療へと切り替わってしまいました。
 それで“森本ていしん”はあくまでも森本先生のていしんなので、自分のオリジナルデザインのていしんが欲しくなって“二木式ていしん”というものを製作しました。ところが平面がつけてあるためにぎゅうぎゅうと強く握ってしまう人が多いということで、最初は一寸三部の長さになる55mmに加えて本治法に適した短くてわざと握りにくくしてある一寸の長さに相当する45mmも製作しました。これに今回“邪専用ていしん”を加えることになりました。

 何故これで治療ができるのか?ていしんという刺さない鍼で効果が出せるのか?それには証決定というものが必要になります(ここから先は当日の講演時間がなくなってしまったので簡略化して話をまとめてしまったので、かなり加筆をしています)。
 設問には、以下のことが書かれていました。『Aさんはリンゴを四つ、B君もリンゴを四つ持っていました、C君はバナナを六つ持っています、これらを子供五人で分けるにはどうすればいいでしょうか?』。
 子供は五人なのですからリンゴは合計で八つとバナナも六つあるので、通常ならまずは五人の子供へ一つずつ配って、その後に残ったリンゴ三つとバナナ一つをどうしようかと考えるでしょう。しかし、単純に追加配布をしていると一人だけもらえる数の少ない子供が出てしまいますから、これは困ったものです。
 どのようにして配布すればいいかを話し合いますか?欲張りな子供がいれば話し合いそのものが行えないかもしれませんし、話し合わずにくじ引きにしようとなるかもしれません。希望者から先着順で追加配布をしますか?でも、なかなか手の上げられない子供がいるかもしれませんし、欲張りが「おまえは手を上げるな」とプレッシャーをかけるかもしれません。けんかになるので追加配布をしないという手もあるでしょうが、その場は問題解決はできてもリンゴ三つとバナナ一つの最終処分はやはり考えねばなりません。
 あるいは、一人だけものすごく小さな子供がいてリンゴにはかじりつけないがバナナならすぐ食べられるので、バナナ二つを最初に配布してしまうと、残りの大きな子供にはリンゴが二つとバナナ一つずつできれいに配布ができます。いや、小さな子供はその場で食べたがってしまいますが親に見せてから食べるべきであり、兄弟の大きな方に二人分をまずは預けるかもしれません。
 実はリンゴの大きさがばらばらで、小さなリンゴ二つで大きなリンゴ一つと同じカウントにしようということがあるかもしれません。その前に、配布をしてくれる大人がいるのかいないのか、大きな子供が仕切って配布を考えているのか、まだまだ状況がいろいろと考えられます。設問は『Aさんはリンゴを四つ、B君もリンゴを四つ持っていました、C君はバナナを六つ持っています、これらを子供五人で分けるにはどうすればいいでしょうか?』。としかないので、大人の存在も子供の大きさもリンゴやバナナの状態も、何も定義がないところから矛盾を解消するためのことを考えねばならない問題だったのです。

 病気というものは身体に矛盾が生じているので発生してくる現象であり、治療というジャッジメントできれいに解消することもあるでしょうが、なかなか矛盾の解消に至らないこともあります。
 先ほどのリンゴとバナナの設問でいえば、子供同士で割り切ることを考えて矛盾を解消していくのが自然治癒力に当たるでしょう。いつも最終的には自分たちで決めていかねばならないのであり、決める力を蓄積することで成長をしていきます。病気でいえば健康の維持・管理するところから、増進というレベルへ踏み出していく行為に相当するでしょう。でも、少し問題が難しくなると大人の助けが必要となり、これが治療に相当します。すぐ解決できる単純な矛盾なら子供だけに任せておけばいいのですけど、矛盾というものは簡単には解消されないので一緒に考える立場の大人が必要であり、それが治療家の立場ですから上から目線ではいけませんけど常に全体を見通す冷静な広い心で取り組まねばなりません。そして最終的には自然治癒力が必要であり、治療とは自然治癒力の手助けをしているものなのです。
 そして治療家の側が覚えておかねばならないことは、矛盾を解消するための解を探るのですけど完全な解をその場で得ることはできないということです。リンゴとバナナの話に戻りますけど、様々な状況を考慮して納得の上で最善だろうと思われる分け方をするのですけど、次に出会ったときに「あの分け方で正解だったね」と会わををしているように、正解というものはある程度の時間が経過しないと判断できないものなのです。それも自分一人では判断できないこともあります。ですから、正解になるはずというものを探るのですけど、あらゆる化膿性とその結果を妥協せず考えて決断していかねばならないのです。
 その「この場で最善と思われる解」を求めるためのツールが、証決定だと思うのです。経絡的な治療を否定する人からは、「たった五つの証決定で病気の治療が全て可能になるなんてその方が矛盾だ」と言われるでしょうけど、考え方やアプローチの間口をまず五つに分けるだけであり、その奥へ進むとまた五つのカテゴリーとして選択肢を整理しているのであり、さらに奥へまた次の段階へと分けて考えていっていますから、証決定による治療は完全なオーダーメイドです。ただ、オーダーメイドの治療であるためには技術習得に時間と経験が必要であり、腕を錆び付かせないための努力を継続しなければなりません。
 同じ経穴へ同じような手法をしているように見えていても、一度きりのオーダーメイドで技術は行われていますが、それ故の危険性もあります。それは「思い込み」という落とし穴です。「この病気はこのようになっているはず」と思い込んでしまうと、証決定には様々な段階があり誤診を防ぐための複数での確認が用意されているのですけど、それらを無視して結論ありきになってしまいます。こうなると解を求めているのではなく、解釈を押しつけてしまうことになります。
 ですから「治療の段階はまだ仮説であり、正解というものは治療が終了したときに初めて証明されるもの」という原則を忘れないことです。西洋医学をベースに治療を組み立てているなら毎回刺鍼する部位に工夫はしていたとしても、それは解を求めているのではなく部分的な矛盾を解放しているだけで治癒に導けるケースはラッキーのなにものでもありませんから、鍼灸で治療をしていこうとするなら証決定という行為は必須なのです。
 病気というものは矛盾が発生させたものなのですから、矛盾を解消させるには少し強引な面があっても仕方ありません。そういう意味で証決定は多少強引な面もありますけど無駄なく効率的にカテゴリー分類を奨めるには陰陽論や五行論というものを信じて自らのものへとしていくことです。そうすれば“ていしん”という全く刺さない鍼しか使っていないのですけど、治療に何ら不自由を感じることなく毎日の臨床がこなせるようになってきます。
 決して毫鍼のことを否定していませんが、古典を読めば鍼は元々刺すことが目的ではなかったことが読み取れるのですから“ていしん”による治療は、頼子展に忠実な治療法だといえます。

 未来のある治療法です。出会いを大切に、今日一日頑張って勉強をしてください。それから滋賀漢方鍼医会の先生たちには、最初に戻って何かが得ていただけていたなら幸いです。それでは長くなってしまいましたが、これで終わります。



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